AIが暮らしの一部に
2024年以降「ChatGPT」により加速度的にAIの日常使いが一般化し、1年前には私の身辺でも殆どの方が日常的に使っている印象で、AIの便利さや優秀さ、面白さに感嘆の声を耳にすることも増えました。私のように呟く人はごく少数と思いますが、すでに生活の中に浸透し生成AIが「無くてなならない存在」へと進化を遂げているその浸透スピードに圧倒されています。

「ケータイ」が一般化した30年ほど前「ずっと繋がっているなんて煩わしいし、不要じゃない?」と思ったのも束の間、ひとたび手にしたら当たり前となりました。「スマホ」が主流になった時にも「ガラケーで事足りてるし、家のパソコンで良くない?」と思ったのに、スマホに買い替えたら手元で何でも完結するその便利さを享受するようになりました。最初は「色々な人と繋がって何を発信するの?」と感じたSNSにも、たくさんの時間を奪われてゆきました。
アナログ時代を経てきた私も、スマホという電子機器に「時間を支配」され、「記憶力は劣化」してゆきました。ある時「スマホがなければ最早家族の連絡先さえ誰一人わからない」という状況を認めその危うさを自覚して以来、手帳を新調した時には家族の連絡先だけは手書きで記す対策を施すようになりました。

ビジネスの世界では、AIをどう駆使できるかどうかが作業効率的にも戦略的にも重要で、既に事業や企業の基本のプラットフォームでありビジネスパーソンの素養として浸透しています。その世界で「AIについて学びどう駆使するか、AIを制覇するか」「AI分野への投資」に関心が高いことを否定するつもりはありません。「AIすごい」や「AIをどう使うか」に意識が向きすぎている現状が危ういと感じるその違和感は、普通の、普段の、人間関係や生活や暮らしや子育てといった、ありとあらゆる場面にも浸透しつつあることに関してです。私個人的な肌感覚として、動物的直感としての「世の潮流に対する違和感」です。
合理性や効率性では決して育まれない、人間が生き物として成長し、社会を構成する人として成熟してゆく場面にも、生活や暮らしづくりの場面にも、決して代替えはできないはずの、必要なはずの時間や手間や余白、人間関係にも、じわりとそれらの領域が侵食され「新しい生活習慣」に慣れていってしまうのではないか、どれだけの人たちが立ち止まり自分自身の頭で考えているのか、あるいは動物的センサーによって違和感を覚えているのか、技術によって人間味や人間力が削がれてゆくそのスピードの速さに圧倒され、危機感を感じるのです。

無自覚に失われゆくもの
近年「トークイベントを企画しても人がなかなか集まらない」「オンラインは集まるけれど会場はなかなか・・・」「以前は乳幼児のママたちが集う場に、今は全然集っていない」「昔はわからないことがあったら聞いてきてくれたけれど、今はスマホで最近はAI。」「とりあえずAIに聞こう」「AIと毎日が毎日の話し相手」「愚痴はChatGPTに聞いてもらう」という言葉が耳に入ってくるようになりました。
私自身も身近なところで変化を感じています。ゆるりははコロナパンデミックと同じタイミングで開室し、直傳靈氣のスクールは緊急事態宣言明けから始めました。当時は急激に人との接触に制限がかかり、また経済活動の鈍化で時間の流れも緩やかになった時期。急に「当たり前だったこと」が奪われたからこそ「人とのつながり」を恋しく思い、普通の大切さや有り難みにも気がつきました。「時間の余裕と余白」が生まれあらゆる活動がストップした時だったからこそ「それまでの忙しない中で見失っていた本当に大切なこと」に気がつく人も多くいました。
その後コロナ明けの宣言がされても尚、その余韻が残る年月がしばらく続いてました。(世間の目のご様子伺いの期間だったのでしょう)急激にまた以前の時間の流れに巻き戻されてゆく世の流れに戸惑いを感じたり、またその波に揉まれつつある我が身を俯瞰しながら自問自答したり足踏みしたい感覚を抱くこともあったかと思います。
2024年はコロナ明けのターニングポイントかのようでした。AIの台頭で益々合理性や効率性の優位性が高まり、これまで人間が長い年月をかけて築き上げてきた、社会のあり方そのものにまで新しい技術が大きな影響を及ぼし、今私たちはコロナ以前以上に加速した時代を生きているように思えてなりません。(修了生は増えていくのにも関わらず、復習会が一番賑わい常にキャンセル待ちだった状況から一変したのも2024年からで、実は「3密」が禁じられていた当時が一番密でした(笑))

近年の傾向としては、「お話会」のリアル参加率の低さ、オンラインよりもアーカイブ希望、「復習会」参加者の減少傾向、参加したら「こういうの大切ですね」「自分の体や心の声に耳を傾けることしていなかった」「頭がものすごく忙しかった」という事に気がつくのですが、これだけ忙しい日常の中でリアルな場へ足を運ぶことそのものが非効率故に、優先順位は後ろ後ろへとなっていかざるを得ないのではないかと思います。
欲しい情報にわざわざ足を運ばずともリーチできる昨今、調べることも不要で一瞬にして回答を得られる今という時代ですが、リアルだからこそ記憶に刻まれます。情報は波動として全身に伝わるからこそ、血となり肉となりその人の人生そのものにも影響を及ぼしてゆく可能性が潜在します。「心震える体験」「感動体験」が人を動かし、五感を刺激しますが、その実体験の激減が人間に何をもたらして行くのか、、、そんな風にも思い巡らせたりします。
スマホの中、AIの知識頼りで、その人の経験や知識の積み上げもなく人間の叡智というものは発揮されず、全ては「電気に依存して成り立つデジタル生活・社会」の危うさ。どんなにその技術革新に投資しようとも、ひとたび電気が止まったら全てが止まります。科学技術に支配され自然とも人ともリアルに繋がらない世界で生きてゆく中で、無自覚に人間の持つ生きてゆく力は削がれてゆき、生きてゆく事そのものが誰にとっても不安定で不安なものになっていくのではないか、そんな風にも想像します。(現代の子どもや若年層の自死が多いその原因にも関係があると思っています)

いつまでも「人間」であり続けたい
今私が感じているような違和感や危機感さえ、珍しがられる時代が来るかもしれません。「なんだか人間ぽいね」とか「人間らしくて懐かしいね」とか「リアルで会ってるの?珍しいね」とか(苦笑)
医療や薬や広告によって「私たちは自らの力で治ることができない」と洗脳されてしまった事に抗い、「本来もつ人間の素晴らしさ」「本来もつ人間の力」に気づき、その力を蘇らせてそれを次世代へと繋いでいきたい。そんな思いもあって私は直傳靈氣を伝授していますが、人間の領域を技術によって侵食されてゆくこの潮流に抗うためにも「リアルに触れ合い」「リアルに集い」「リアルに感じる」事を一層大切にしていきたいし、人間の生きる鼓動に寄り添った緩やかな時間の貴重さ、有り難さを忘れない為にも、とても意義のある伝授だと信じています。
どんどん時間は流れてゆくし、どんどん時間は押し寄せてきます。その中でいかに軸をたてるか、自分という存在に確信を持てるか、実は一層「なんとなく」では生きてゆけない時代になっているのだと思うのです。一層「個」が問われる時代を生き抜くためにも、その人の「個」にスポットライトを当て、過去の闇は葬るのではなく自分の糧として歩んでゆく強さを備えて欲しい。そのためにゆるりはという場が必要な人と繋がり、ゆるりはのエネルギーケアやハートケアを上手に活用して頂けたらと思っています。

社会的な視点から見たAI
夫:髙坂勝は論理的にデータをもとにAI時代を分析していて、幾つかの新聞記事のタイトルをシェアしています。考えさせられる情報なので転記しますのでご関心ある方はご一読くださいね。(やや言葉遣いが強いですが、、、。)
AIという利便性の闇(雇用がなくなるとかそういうのもあるが、それとは別に)。何かを誰かを犠牲にして見ぬフリして人類は滅びへ進んでゆくんかね。またしても、アホだね、欲とか進化とか利便とか金儲けを制御できないヒトって生き物は。結局、犠牲は自分に戻ってくるというのに。AI で一つ何かを調べると冷却に500mlの水を浪費する。電気も莫大、データセンター周辺に住まう人の犠牲、人への健康被害、、、、、。以下、全て日経より。
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昨日の投稿に関連して今日の日経から。民間のデータセンター建設投資に国が最大5割補助。しかも条件に原発か再エネ100%で、と。原発は脱炭素なんて虚構。再エネはまだわかるが、だとしたらメガソーラー補助を無しにすると発表したばかりなので(大資本や外部資本による環境破壊型かつ地域循環型でないメガソーラーは俺も反対だが)、政府の目論見がろくでもないことが見てわかる。高市氏は原発・リニア・成田空港で国起こし、なんて記事のタイトルも昨日見かけた。国起こしならぬ、国滅ぼしだと国民に気付いてほしいよ。国を超えて人類滅ぼし。経産省はそもそもロクでもない。























