嫌なことをされた時
不本意なことがあった時
傷ついた時
理不尽な目にあった時
いつも 私は どうしているだろか
その時に 思ったこと
その時に 感じたこと
後回しにせず
その時に そのままに あるがままに
声にして 相手に届けられているだろうか
時にちゃんと怒ったり 泣いたり
感情を表に 出せているだろうか
胸の内にあるものを 溜めることなく
押し寄せる感情の波を 一旦受け止め
その熱を胸の外へと 放っているだろうか
社会的構造の中で
小さき者や弱き者
持たざる者は
怒る権利も 物申す権利も
奪われている
自分ではない誰かが
心地良くあれるよう
自分ではない誰かが
機嫌よくあれるようにと
「いい人」と「いい子」を
続けては いないだろうか
自らの本音は隠し 空気を読み
聞き分けよく、当たり障りのない関係は
実は緊張と不安、不信が付き纏う
安心と安全を感じる
信頼で結ばれた 血の通った関係性は
どうしたら築かれるのか
いい人であり続けることをやめて
いい子であり続けることもやめて
自分のために
弱き者のために
私たちはもっと 怒っていい

後書き:
怒りというのは表層の感情で認知しやすく、外に吐き出しやすい感情でもあります。また、怒りという感情は攻撃性により他者を蝕む感情であると同時に、自分自身をも蝕む為慎むべき感情であることは間違いありません。自分の内側に湧いてきた怒りの本質はどこにあるのか、内観をすすめ、怒りを収め、冷静さを取り戻す事が肝要です。
このコラムで言う「もっと怒っていい」というのは、感情的になれと言う意味でも、ワガママであれと言う意味でもありません。自分の権利を踏み躙られたり、自分の尊厳を傷つけられたり、明らかに外因の出来事であるにも関わらず、怒る事なく冷静さを装い、事が大袈裟にならないように気遣い、他者と衝突しないようにと配慮し、自分自身を擁護せず、自分自身の内なる声に耳を貸さず、自分自身を消耗させ、自分自身で自分を傷つけるという結果へ自らを導いてるような選択や生き方からは、そろそろ卒業しませんか?というメッセージです。自分は怒りへの耐性が極めて強い人間なのだと思い込むことで、痛みを痛みとして受け止めず、さほど傷ついていない振りをする。。。そんな癖が、ついていませんか?
ゆるりは書庫にも置いてあるフェミニズムを扱った「私たちは無痛恋愛がしたい」というコミック。その第6巻の中で深く首を縦に振る部分がありました。そのページの部分だけ、転載しますね。私たち女性は、男性に怒る時にも「お願いベース」の言葉しか用意がない。これは男女でなくても、権威ある者に対して訴える際に、命令形で「やめろ」とはなかなか言えない。主張しても、道理が通用しなくても、弱きものは我慢するしかない。そういう社会構造は大人の世界でも、子どものいる世界でもあると思います。
置かれている状況や立場に関係なく、自分の声がしっかり持てること。表現できること。
この社会に自分という存在があるという「生きているという実感」は、そういう時にこそ感じられるのではないでしょうか。生きることに絶望し命を絶つという選択をする子どもたちが増え続けているというとても悲しい現実は、本来大人より自由であるはずの子どもでさえ、守られるべき子どもである事も、自分自身である事も、子ども故に未熟であるのに大人のような成熟さを求められる、痛みを感じ傷ついているそのままの弱い自分で存在すること自体が難しい、受け入れられない現実とも繋がっているのではないでしょうか。
まずは大人が、自分自身で生きる姿を見せること。
「私」で生きること。
凸凹もある、不器用さもある、人間臭さもある
それでも大丈夫と生きている「私」を世に現すこと。





















