違和感と直感
「こころという存在」はコントロールしたくても
なかなか思うようにはならない。
好ましい展開になるのか
追い込められる展開になるのか
先が読めない上
コントロールも出来ないから
居心地悪く 不安になる。
居心地の悪さや不安を嫌厭しているうちに
「内なる情動」は言葉で表現される事なく
「内なる感情」は自他に認知される事なく
「こころという存在」は薄らいでゆく。
遠ざかってゆく「こころという存在」とは対照的に
存在を強めていくのは「頭、脳、思考の世界」。
その世界に馴染みすぎて
「思考そのものが自分という存在」と
疑わなくなってゆく。
「こころ」さえも「頭」でコントロールし
「こころ」=「頭」と思いこむ。
「こころ」は大した問題ではないと判断され、
その存在は次第に薄らぎ、忘れ去られてゆく。
目や耳から得た情報でつくられる世界で
「思考や肉体の存在」は強まり、
「こころの存在」は薄まる。
「生命体としての自分」や
「唯一無二の本当の自分」の存在が薄らぐにつれ
住む世界からイロドリが削がれてゆく。
「直感」は「思考の世界」に馴染み 衰えてゆく。
「直感」は 理屈ではない世界、動物的感覚。
ひらめきやピピっときたなどの「直感」ばかりではなく、
「違和感という直感」も衰えてゆく。
自然界の摂理から遠ざかると
何が自然で 何が不自然なのか わからなくなる。
動物的直感で嗅ぎ分ける力も 削がれてゆく。
結果、ヒトという生物として存在してゆく上で
必要な不可欠な力の衰えにも繋がってゆく。
一旦 思考の世界から抜け出し、感じる力を呼び戻す。
薄らいでいた「こころの存在」を大切に扱っていくにつれ
動物的感性は自ずと蘇ってくる。
それは、誰もが元来持っている回復力。
「違和感と直感」は 私たちが
「肉体と思考だけの存在ではない」ということの証。
現代の暮らしの中で、近年の新しい生活習慣で、
あるいは子育ての環境によって、
私たちの「違和感と直感」は一層鈍化傾向にあると仮定したら。
生きている充足感や豊かさからは遠ざかり、
日々の小さな幸せや喜びも削がれてはないだろうか。
生命体である自分回帰へ。
思考の世界から心の世界へ。
今この時代だからこそ
「違和感と直感」を蘇らせ
それらの気づきを日常に活かす。
「こころの存在」を近くに置くほどに
潜在意識とも近しくなる。
生きづらさからの解放は、数倍加速する。
私が「レイキ」ではなく「靈氣」を伝えている理由には、
内に巡り流れる自然エネルギーの世界を
「肉体で感じること事」を入り口に
「こころの存在と領域」に近づいてほしいから。
「感じる世界を育み、慈しむ」
そのエッセンスを日々に取り入れてほしいから。
そんな思い。
そしてゆるりはのエネルギーケアも、
ゆるりはのハートケアで向かう先も、
全てはそこに 繋がっている。